「鍼灸臨床録」(代田文誌著)より抜粋 貴重な人物評(近衛文麿、頭山満など)  - 熊谷市「和鍼灸治療院」

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「鍼灸臨床録」(代田文誌著)より抜粋 貴重な人物評(近衛文麿、頭山満など) 

2016年06月15日

最近手に入れた「鍼灸臨床録」(代田文誌著)が面白い。

代田文誌は昭和日本を代表する鍼灸師であるが、多数の著作を残した名文家でもある。

私は鍼灸学校に入る前から代田文誌の「鍼灸真髄」「鍼灸治療基礎学」は通読していた。

優れた人間性の格調高さや、鍼灸によせる熱い思いが、文章から響いてきて東洋医学の意味が分からずとも読み進められてしまうのだ。

「鍼灸臨床録」は昭和48年第1刷で創元社から出版されている。

536ページから、鍼灸随想というエッセイがあり、貴重な人物評があるので紹介したい。

どうせ青空文庫にもならないだろうから、検索した人に読んでもらえるように手写しして、ネットで誰がたどりつくかわからないが、一寸置いておこう。

昭和は遠くなりにけり、振り返って昭和初期の政治家・名士の雰囲気を味わいたい。

現在の歴史的評価がどうあれ、語る方も、語られる方も、「人物」が今日の日本人とは何が違う。

歴史的人物評として貴重だと思う。

※なお、頭山満の人物伝は、夢野久作「近世快人伝」が面白いので紹介しておきます。 近世快人伝 夢野久作 (青空文庫)http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2140_23920.html

現在2016年夏、日本人はもう変わってしまった、と感じる。

また、患者論としてみても興味深い。信頼で結ばれる患者・治療家の関係は幸せだ。

ともあれ、エッセイの一部しか抜粋できないので、興味がわいたら原本を手にとってみてください。

「鍼灸臨床録」(代田文誌著・創元社・昭和48年)
P536~P541 鍼灸随想 より「名士往診の思い出」

(以下、抜粋)

――――――――――――

名士往診の思い出

これは私の往診の思い出で、私事にわたって申し訳ないが、思索の糸が往診にからんで、名士往診時の思い出がつぎつぎと浮かんできたので、思い出すままに書きとめておく。自分の恥さらしのようなものだが、何かの参考になるかもしれぬ。

往診の思い出は実に限りなくあるが、ここには故人に関するものだけにとどめる。それも、ほんの一部にすぎない。

近衛文麿公


私は近衛文麿公を診に行った時のような気おくれのしたことは、そのほかには一度も経験したことがない。人は近衛公について、とやかくいうが、私の見たかぎりではすぐれた人であったと思う。とにかく、人間の幅が大きく、ゆったりとしていて、面と向かうと、どうしても気おくれがした。体を診ながら腋の下から汗が流れた。そんなに重症を診に行ったのではない。にもかかわらず、私はおちつきを失った。一般患者を扱う時のような平静な心境になれなかった。治療は手落ちなくやったが、たえずどこかで束縛を感じた。これは私の心境ではまぬがれ得ないことであったかもしれない。けれども残念であった。

近衛さんの人間の大きさが私を圧倒したのであると思う。体格もがっちりとして大きいし、顔もおおどかで侵し難い威厳があり、想像とはまるでちがった偉丈夫であった。ほんとうに立派な男ぶりであった。その威厳といっても、自然にそなわったものであって、特につくったものでなく、おのずからなる徳の力によるものであった。とにかく大きな存在であった。

最初診に行った時は、華族会館の二階であったが、二度目に行った時は公の書斎で、机の背面の壁には西園寺公の額が掲げてあり、左手の棚にはルーズベルトの写真が立てかけてあった。机の上には英国史が開かれてあり、近くの机の上には、御字多天皇の御宸翰の法帖がおいてあった。この法帖は近衛さんの好んで習字されたものである。ルーズベルトの写真はどういうつもりで掲げてあるのか、私には意味がわからなかった。この人を世界最大の役者と見て、この人に対面したときに気おくれのせぬような心境をひそかに練っていたのではないか。戦争の終結はこの人を相手として取り結ばねばならぬことは必至の勢いであったのだから。

この書斎の片隅に寝台があって、ここで私は体を診た。この時も、前ほどではないが、どうしても気おくれを感じた。やはり人間の大きさに打たれたのである。ことに言葉数が少ないので、とりつきが悪かった。治療がすんでから手持ち無沙汰で困った。

私が診に行ったのは、近衛さんが総理大臣をやめて、東条さんが総理をやっている頃であった。だが私はこの人こそ戦争の終局にあたって最後のしめくくりをされる人のような気がしたのである。惜しいことに終戦後自決され、その本当の腹の中もまだ世の人々にはわからず、その本当の使命も果たされなかった。永久に惜しい人だと思える。

頭山満翁


近衛さんを診に行った時にくらべると、頭山満翁を診に行った時は実に気楽であった。翁はまるで子供のようであった。「お年に似合わずお肌がきれいですね」というと、ニコニコして、「これ見よ、こんなにきれいだ」といって、膝をまくって股のあたりを出して見せられた。まるで無邪気で、こちらの心に溶け入られるので、治療も実に楽であった。このようにこだわりの心境の人に逢うと、治療が実に楽にできる。余談になるが、翁が自分の顔にあるシミ(老年者によく出るもの)を気にして、「これは灸でとれぬか」という。それに対しては自信がなかったので、「そんなのはあったとてさしつかえないでしょう」というと「いいやそうでない。顔はきれいな方がよい」と言って笑った。その時もう八十歳をかなり超えて九十歳に近い年齢であったが、体ががっちりしていて、栄養もよく、肌の色つやもよかった。

頭山翁を診に行ったことは二度だけであったが、二度とも実に楽しかった。思うように治療ができ、少しも気おくれなど感じなかった。それどころか一心同体になって治療ができた。こうした心境の点からいうと、近衛さんなど、その足元にも及びもつかないほどの高いところへ入っていられたように思う。垢の抜けた禅僧に対するのと同様であった。

頭山翁を診ながら、聞いたことも話したこともいろいろとあり、西郷さんに関する話など実に面白いのだが、それはあまりにも余談になるから、ここには割愛することにする。ただその心境をいつまでも有難く思う。

建川中将


ところが建川中将を診に行った時は、これとはまったく違った感じが出てしまった。建川さんは、有名な熱河作戦の名将軍である。武人としての誉れも高い。だが、この人は、無邪気ではあったが人を喰ったようなところがあり、いきなり私を馬鹿にした。その一つは何でも三里の灸の位置のことであったが、建川さんの既にすえていたのは少し位置が違うと言って訂正すると、「専門家というのはみんな天狗になりたがって困る」と言って、からかった。それがいかにも人を愚弄するような態度であった。われわれ専門家にとっては頂門の一針かもしれぬが、私はグッと癪にさわった。そこで「全くそうかもしれません。だが専門家が天狗になるのは、針灸家ばかりではありません。軍人なども、天狗になり過ぎて、国家の全局のことがわかりませんな」と応酬した。「これはまいった」と言って笑われた。「いい気味だ」と私は思った。こんなわけでお互いに心がほぐれ、冗談をいいながら治療を終えた。最初心にかかった曇を払いのけて、清澄な気持に立ち返って治療ができてうれしかった。だが惜しいことに、この口の悪い禅僧のような建川さんにも、自分の偉さを鼻にかけるような稚気が感じられた。そして、おそらくこの人は私の言いつけを守るまいと思われた。その頃、建川さんは血圧が非常に高かったのである。旅行を禁じ、しばらく安静を守るように言っておいたのであるが、それを聞かずに旅に出て、とうとう旅で病みつき、命を落とされた。

大村一蔵氏


この建川さんとは全く違って、日本石油の権威者大村一蔵氏を診に行った時は実に気持がよかった。科学的な頭脳の持主であり、日本の陸海軍の石油に関する相談の最高顧問であったにもかかわらず、私の治療を受けられる態度はまるで子供のようであった。徹頭徹尾信頼された。こうなると私の方でも熱心にならざるを得ない。万障差し繰って月々に診に行った。そうして、重症の高血圧の症状からだんだん回復され、ついに起ち得るまでになった。それからもずっと体を診たが、戦争が激しくなるにつれて、軍の最高顧問としての大村さんの用務も多くなり、ついに心身の過労となり、重要な会議中に脳溢血を起こして長逝された。だが大村さんの治療はいま思い出しても気持がよい。あのように一切をまかせきった態度になられると、治療にあたる方でも全心を傾けつくすことができる。

宮島大八先生


大村さん以上に、私の治療を信頼され一切をまかせて下さった人に、宮島大八先生がある。宮島大八先生は、最後は直腸癌で慶応病院で手術を受け、数日後になくなられたが、それまでの五~六年間というものは私が毎月のように診に行ってあげていた。私は先生を診に行くのが楽しみであった。診に行って先生の高い人格の香りにふれ、いろいろとお話を承るのが、この上もない楽しみであった。それについて記せば、思い出は限りもなくある。けれども、この随想は治療について書くわけであるから、そうした余談は割愛せねばならぬ。ただ記しておきたいのは、先生の人を遇する態度である。これは全く大人(たいじん)の人を遇する態度とも言いたい。全く虚心坦懐で温情のこもったものであり、温々煦々として春日の照らすが如くであった。先生には毅然としたところもあり、峻厳なるところもあられたが、そういうものは奥底にかくれて見えず、いつもニコニコとして温かい心で人に接しられた。先生は実に大慈悲の人であった。東亜の諸邦がほんとうに親善なる友好を結ぶには大慈悲心によるのでなければならぬと常に言い、自らも観世音菩薩を信仰していられた。

私がある時、シナ文化について批評し、「シナの書物を読むと全く玉と石がごっちゃで、石ばかりかと思うと玉も所々にころがっている。石が多いからといって玉まで捨ててかえりみぬような愚をなすべきではない。ゴタゴタとある石の中から不滅に輝く玉を拾い出すような気持でシナの古典は読むべきだ。『素問』とか『霊枢』とかいう医書を読む場合も同様でなければならぬ」と言ったら、「それは明言だ」と先生は非常によろこび、「そうだ、そうだ、よいことを言って下すった」と言って、来る人ごとにそれを話された。先生はシナ文化に対しては非常な愛着を持っておられた。そうして東洋人をして本当の意味の東洋文化の恩沢に浴せしめるようにせねばならぬと、常に思い念じておられた。先生が針灸や漢方を愛された真意の底には、そうした東洋文化を愛する至念もこもっていたのであると思われる。

名士往診の思い出は、記せば限りなくあるが、以上をその一班として、あとは後日に譲ることにしよう。

(昭和36年2月)




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